絵画 2022年

#20 夕空 2022年3月 B3 MDFボード パミス下地 アクリル絵具  半年ぶりの絵。描くことのリハビリテーションがてら、夕空の色を出す練習をした。  自宅ベランダからの光景。パミス下地で凹凸があるので、薄くあっさり描いた段階だがここで止めた。 #21 2歳半  2022年4月 P12 MDFボード ジェッソ下地 アクリル絵具  ミニカー遊びに集中する2歳半。赤ちゃんぽさが抜けて、幼児の顔つき、身体つきになってきた。その感じを絵にするのが今回の課題。  イラスト調にならぬよう、ざっくり描く意識なのだがやはり難しい。背景が単純過ぎたのも反省。 #22 模写 セザンヌ作「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」  2022年7月 P12 MDFボード ジェッソ下地 アクリル絵具  勉強かつ遊びの模写、今回はセザンヌ(1839-1906)だ。サント・ヴィクトワールはセザンヌの故郷、南仏エクス・アン・プロヴァンス近郊の山で、油彩・水彩の80点を超える作品を残している。その一つ、アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)所蔵の1点が今回の対象だ。  サント・ヴィクトワールは見る角度で山の形が違うが、これは真西から見た形。シャトー・ノワールは黄赤色だが、石炭商人が建てた屋敷なのでこの名で呼ばれていたらしい。画面の左下、右上に近景の樹木がシルエットとしてあり、シャトーが中景、木々や村の家らしきものもある。近景の樹木越しに、遠景の山が大きくクローズアップされて見える。朝なのだろうか、山肌に白く輝く部分がある。  おそらく、このとおりの構図の写生ではなく、セザンヌの合成、再構成だろう。セザンヌのサント・ヴィクトワール作品は、1900年頃を境に具象から抽象に向かって行く。複数の視点からの形状を一つの画面に構成する、物の形態を幾何学的な単純な形に置きかえる、といった点で、後のキュービスムの先駆者とも言われている。  今回の対象は、最晩年の1904-06年の作品である。空、山、木々・家が筆(あるいはナイフ)のタッチで描かれるが、一時期の抽象化が進んだブロック状ではなく、少し柔らかく、ぼんやりとしたタッチだ。本当に木々や家なのか何なのか、もはやよくわからない。その中で、シャトーの建物については、単純化されているが具象的であり、輪郭線があって明確な形で目立っている。具象への揺り戻しのようだが、これがセザンヌの最終的に到達した境地なのか、試行錯誤の途中なのか、それもわからない。  セザンヌのタッチは大胆で大雑把に見える。ジグソーパズルのピースのような、色分けされた大きなタッチによって、木々や家、空、山肌が構成されている。印象派の筆触分割(色彩分割)の延長ということかもしれないが、異なる色彩の大きいピースで物体の形状、構図の奥行を組み立てていて、実は計画的で繊細だ。模写してそれがわかった。セザンヌは下手うまの人、謎の人だ。  今回の模写の難しさ、面白さはこの点だった。結果として、空や山肌はジグソーのピースとまで行かず、ぼやかして曖昧なタッチにしてしまった。  コロナ第7波が収まったら、アーティゾン美術館の本物を見に行きたい。 #23 模写 セザンヌ作「サント・ヴィクトワール山 - ローヴからの眺め」  2022年10月 P12 MDFボード ジェッソ下地 アクリル絵具  セザンヌの模写をもう一作。スイス、バーゼル市立美術館所蔵の作品で、主題は同じサント・ヴィクトワール山、制作時期も同じ1904-06年。山の形が左右不対称なのは、より北側から、東南東方向に山を眺めるため。エクス・アン・プロヴァンス市の北の郊外ローヴにセザンヌのアトリエがあり、近くの「ローヴの丘」からの眺めらしい。  描かれているのは、山、地平線と空、森、家や道らしきもの、画面左側の近景の木々(なのか?)からなる風景だが、山の形状は山でなくなりかけているし、空と近景の木がつながって溶け合っている。森や家を連続する筆のタッチで形を幾何学的に単純化して表わしていて、抽象化の度合がより高い。何もかもが「らしきもの」だ。山は「ローヴの丘」から10km先で、こんなに大きく見えないだろうし、目で見たとおりの風景ではなく、セザンヌが再構成した風景である。  今回の模写は、半ば抽象絵画化していく過程を体感し、できることなら盗もう、という図々しい狙いだ。  描いてまず痛感したのは、筆のタッチの再現の難しさだ。前回の模写で、このタッチの真似がうまく行かなかった。今度こそだが、やはりできない。  原画の写真画像を拡大すると、画面のほとんどで筆のタッチは1回だけ。塗り残してカンヴァスの布地が見える箇所もあちこちにある。油絵具と違ってアクリル絵具は乾きが早く、水やメディウムを加えながら描くが、絵具の濃度・粘度が不足して、1回のタッチで筆のエッジが効いた長方形や台形を出すことが難しい。何回も筆を重ねてエッジがあいまいになった。また、原画は明度・彩度を抑えているが多彩で、森の部分も意外と一筆ごとの色の違いがある。不透明色の油絵具で重ね塗りが効いているかもしれない。私は違いが小さい同系の混色で筆を重ねてしまった。その結果、家や森の幾何学的な単純化ができず、細かいリズムの刻みが無く、ぼんやり散漫な絵に。  この模写の肝心かなめは、筆のタッチだが遠く及ばない。セザンヌは雑に見えながら計画的だ。  もう一つわかったのは、画面に長い直線が何本もあって、視線を集めるアクセントとなり、絵に安定感や心地よさを与えていることだ。まず、画面の上1/3に地平線があって、空と地面を分けている。画面の下1/3には、右下がりの直線として道が伸びる。この2本がまず明白だが、間にも左下がりの直線が森からずっと先まで伸びている。ほかにも、浅い角度、深い角度の斜めの線が何本もある。筆のタッチのモザイクが、仮に全くランダムであれば乱雑で落ち着かないが、水平な線、右下がり・左下がりの線に沿い秩序だっていることで、快さがある。グラフィックデザイン的な計算された画面構成だ。  セザンヌは変わり者で、晩年は一層頑固になったというが、サント・ヴィクトワール山の連作は、一作ごとに何か新しい試みをしていたようだ。絵に関しては柔軟さがあった。真髄を盗むことはとてもできなかったが、制作過程の一端に触れることができた。